ハーモニー:映画版感想
というわけで公開初日にハーモニーを見に行ってきました。
一言でいうと中二病のメンヘラ少女が世界を滅ぼす話です。
確実にデートには向かないです。暗い話なのでひとりでいくかそういうの好きな人と行ってください。
僕は原作の世界観が大好きで、下手な社会のあり方に書いて書かれた本を読むくらいならこれを読むべきじゃないか、とすら思っています。
つまり、
<ul>
<li>ありとあらゆる情報が開示され、リアルタイムでオーバーレイされる社会</li>
<li>個人の健康状態が評価に直結し、それにより社会的地位も上下する社会</li>
</ul>
↑わざとやってますよw
この世界はいずれやってくるし、この社会は人間が必ず通過しなければならないディストピアだと思っています。
視界に入ったものが一体誰であるか、何であるかが表示されるということは、その対象の理解につながることになると思います。対象を理解した上で行動することと理解せずに行動するのとではまるでリアクションが変わってしまうことってありますよね。電車で目の前に立っている元気そうな若者は、実は病気で頑張って立っているだけなのかもしれない。他人の様々な事情が、口で語られることなく勝手に示されれば、他人に優しくできるのではないか。袖振り合う他人が「何者であるか」を開示された時に、我々はその人を乱雑に扱えますか?これは他人との関係性を考える時に非常に重要なテーマだと思います。
また物語が書かれた2008年当時も、レビューが世の中に普及していていましたが、今や物を買うときにAmazonの評価を見ない人ってほとんどいない気がします。どこかで食事するときは食べログを見るし、他者の評価が自分の評価の判断基準になっている。販売する側も、それを買う側も評価し評価される、他人の目からは出て行くことはできない。可視化されない時も、我々は常に評価を受けている。
そしてこの物語で描かれる評価の対象は、「健康」です。常に個人の健康状態が「WatchMe」を通して監視され、健康であることを強制された社会。健康の可視化もすでに進んでいます。スマートウォッチが常に脈拍を測り続け、健康状態がヘルスケアに蓄積される状態。医療関係者もそれを閲覧できる時代。
そして、社会に続いて、脳のあり方に「SF的な」考察を加えたことにより導き出された、ハーモニープログラムの副作用。これが多層的に織り成され、集約するためのミァハ、トァン、キアンの3人の一種百合的な関係性を軸にした人間ドラマ。
と、原作が好きな理由をつらつらと書きならべてしまいましたが、映画の話に移るとしますw
ここからはネタバレアリです。
まず単体の映画として捉えた時には、これは駄作か?と思いました。
ほぼ原作を踏襲したところまではいいのに、多くの人々の長い独白によって話が進行していく関係上、ドラマ性が失われてひたすら淡白に進んでいくイメージ。
例えば、ケイタやヌァザ、エーディンが研究について語る時に、ひたすらキャラクターの映像が写されますが、ここに例えば研究時の回想映像を入れたり、概念のイメージ図を入れたり、あるいは心象描写を織り交ぜた都市の風景を見せればこれらのシーンの冗長さは軽減されたかもしれません。
それに、重要なシーンにイメージ映像を入れる、例えばエーディンの死が告げられたシーンでエーディンが殺される瞬間をオーバーレイさせればさらにそれを印象付けられたかもしれません。
この表現であれば、映画ではなくTV放送にした方がいいのでは?と思いました。事実、アニメの総集編を劇場で見ているのような印象を受けました。
そんなモヤモヤを抱えた中で、いろいろ考えていたのですが、あることに気づきました。
この物語は、ハーモニープログラム発動後の「意識消失後」の世界に残されたひとつの物語だと。
となると、感情表現や思い出の表現は全てetmlで記述されています。全て客観的な世界です。
この客観的な世界を掘り出すために、あえてこのようなドラマ性を排した表現にしたのでは?
と考えるのは原作愛のせいでしょうか・・・。
単なるカット割りの制約だったりしてw
もちろん原作ファンとしては、描いて欲しいのに描いてもらえなかったり、表現が気に食わなかったシーンがいっぱいあることに不満はありますが。例えば、
- キアンが自殺するシーンはトァンは目で見ているよね?なのでその決定的な瞬間を描いても良かったんじゃないか。
- ヌァザがハーモニープログラムの副作用を語るシーンで、その副作用をトァンが原作では言い当てるのに、それが映画ではヌァザがさらっと言ってしまう。原作ではそこで衝撃を受けただけに残念でした。
- ラストシーンはミァハとトァンがバンカーから出て行き、コーカサスを眺めながらハーモニープログラムの発動を見届け、まさに消え去っていくようなラストだったのに、バンカーでのシーン以降は描かれなかった。消え去っていくようなラストからのGhost of a smileを期待していたのに・・・・
とかね・・・。
また、だらだらと気付いたところを並べていくと、
- トァンの同僚はウーヴェが採用になりました。エティエンヌとどっちかがカットされるだろうなと思ったけど。
- CGで人を描くのは努力はわかるんだけど、ちょっと浮いてた。
- 原作でもそうだけど、アクションシーンと呼べるものは最初のシーンだけ。わかってるからいいんだけど、そういうのを期待してた人は辛いかも。
- 「ただの人間には興味はありません」は残ってた。
- うねうね動くジャングルジムとか知性天井などはカット。まぁさすがにやっちゃうと安っぽくなるからいいけど。
- 件の食事シーン辺りからセリフ長いよ!っていう気持ちになってくる。反逆のキュウべえなんて目じゃないレベル。やっぱこう言うセリフの物量をおしきれる押井守は偉大だ。てか押井に作らせれば良かったんじゃないか(今更)
- ミァハからキアンへの着信は、トァンがぼーっとしていたとしてもあの間であれだけのセリフ量はないよなって思っちゃう。それはまぁ原作からなんだけど。
- レイコ→ケイタ→エーディン→ヌァザ→ミァハのスーパーお使いタイムは誰か飛ばしてもいいかと思った。てかキアンがミァハの死体の行き先を語ってるので、レイコはカットされるんじゃないかと思った。
- このお使いの連鎖はある意味ゲーム的だよね。まぁ原作の時から感じていたんだけど。
- トァンの独白で街の説明まではいらんかなぁと思った。
- バグダッドの旧市街地の表現は良かった。それまでほとんど未来的なシーンしかなかったので。
- ヌァザが待っているシーンで片足だけ前に出てて波止場のハードボイルドみたいになっててちょっとワロタ。
- 三木眞一郎が屍者の帝国に引き続き虫の息で次の目的地を告げるのはワロタwww またかよお前みたいな感じ。
- 次世代(ryのおじさんたちはゼーレみたいなのをイメージしてたけど、バスタードのエウロペアの十賢者みたいな感じ。
- オーグ会のCGは良かった。次世代チャットって感じ。
- 普通の物語だったらラストのチェチェンに着いたあたりはもっと盛り上がっても良さそうなのに、原作からして全然盛り上がらないので、関係者泣かせだなぁと思った。
- ラストのバンカーのシーンでのミァハ登場はブレードランナーのデッカードとロイの追いかけっこを想起させられました。やたら反響の強い空間っていうのも相まって。おっさんふたりじゃなくて若い女ふたりの追いかけっこなので、ビジュアル的にはだいぶマシですけどね。
- 御冷ミァハ(28)って考えると、うん、まぁ、ね。
- うーん、トァンがミァハを殺す理由の改変はいいんだけど、やっぱそのあとのシーンは欲しかったなぁ(二度目)
- ハーモニープログラムの発動は想像以上にあっさり描かれたなと。
- あの宗教っぽい曲よりも、スムーズにGhost of a smileに入ったほうがよかったのでは?
- Ghost of a smileは盛り上がらないLet it Goみたいな曲調で、ある意味本作にふさわしいです。
うだうだ書いてしまったけど、やはり大好きな原作であるので、自分のイメージは自分の中で補完します。そしてまた見に行くと思いますwww
ちなみに、ニコニコ大百科のハーモニーのページはなかなか秀逸で一見の価値ありです。
あとは来年の虐殺器官に期待ですね。