春画展に行ってきた。
春画展に行ってきました。
開催場所の永青文庫は、細川家伝来の美術品の展示箇所だということを初めて知りました。最後のコーナーに永青文庫所蔵の春画の巻物が置いてありましたが、
「20歳になったお前に我が家秘伝の書物を授ける」
って言われてワクワクしてみたら、春画だったら面白いですよね。
内容としては、もうご想像の通りの代物です。昔の萌え絵です。
一緒に行った人と、もうこれは昔のエロ同人誌だよね、という話をしてました。
有名な物語を下地にした二次創作あり、触手モノあり、ホモォあり、日本人の性に対する想像力というのは昔から上記を逸していました。
日本人はデフォルメ技術に長けていて(なぜ長けているかの考察はよくわからないのでしません)、それが浮世絵の独特な顔の表現に現れていると思うのですが、それは現代の萌え絵にも通じる感覚だと思います。
多分200年後とかに、エロ同人展なんかが開かれてこういう風に紹介されるのかな。
あと、もちろんノーモザなのですが、いつから日本の出版物はモザイクを入れる必要が出てしまったんだろう。海外ではモロ出しなのにね。
局部の隠蔽それ自体が猥褻であることを隠すかというとそんなことはないと思うんですよ。既に行為自体が猥褻なわけで。
そして猥褻だと言ったところで、結局子供を作って子孫を繁栄させる、人間としての種の存続を考えたら、性行為自体を隠蔽することはむしろ種の存続を途絶えさせてしまう遠因になることだってある。(ちなみに展示物には夫婦向けの性の指南書もありました)
これは猥褻であるか、ということの定義は結局は個人の裁量に依存していて、当人が猥褻と認めれば猥褻になってしまうのは現実にありえることです。
例えば、「あなたの家に生えている木のうろが女性器に見える、これは猥褻だ、伐採してくれ」と言われたら、それを否定することはもはやできません。
「私にはこれは女性器には見えない」という主張を受け入れてもらうことは、悪魔の証明にも似た難しさがあります。個人の感覚を理詰めで変えることはできないですからね。
「これを猥褻だと思うあなたの思考が猥褻である」っていうのはゲーム脳の論破にも使われるようなフレーズですが、こんな主張をしてしまえば火に油を注いでしまいます。
そうすると、多様であるはずの猥褻の基準が社会においてはどんどん厳しいラインに揃っていきます。
ある人はΦという文字を見ると女性器を連想し、ある人は縦棒を見たときに女性器を連想する。
そうなった時、社会全体における猥褻の判断基準が個人の判断の"最小公倍数"的に揃えられ、Φも縦棒も禁止させる世の中になってしまう。
そして社会通念的に許される範囲がものすごく狭くなってしまう。
ネット時代だから起こるような、個々人の判断基準の集積によって特定のものが非難され、潰されてしまうような例は、このように説明できるのかなぁと思いました。
ものすごく話が逸れましたが、春画を見ていて猥褻とは何か、というのを分析してしまいました。
あとおまけですが、物販で春画Tシャツを売っていたのですが、"猥褻"だと思われる部分に関してはポケットを付ける(中はちゃんとプリントされてある)という凝った代物でした。
普段の服とあまりに合わないので買いませんでしたが。