作業用BGMにMeshuggahを勧める3つの理由。
※この記事は作業用BGM(個人or社内) Advent Calendar 2015の24日目の記事となっております。
Messuggahとは?
Messhuggahは北欧のヘヴィメタルバンドである。日本では主にメシュガーと読まれるが、本当はメシューガらしい。
ビジュアル的には、こんなおじさんお兄さんたちの集団である。
夜道で絶対に出会いたくない人たちである。
彼らはヘヴィメタルと言うウルサイ音楽の代名詞ともいうべきジャンルの中でも、特にウルサイ、デスメタルと言うジャンルに属している。
メタルはサブジャンルが非常に多く、ラーメンのごとく形容詞をどんどん頭につけてはジャンルを細分化していく傾向にあるのだが、彼らの音楽はなんと言えばいいのだろう。
と言えばいいのだろうか。
そんな彼らは、作業用BGMに実に適している特徴を多々持っているのだが、その理由を以下で説明する。
作業用BGMにMeshuggahを勧める理由
1. デスメタルである
デスメタルには以下の特徴がある。
- デスボイスの使用(歪ませた野太い声である)
- 強いディストーションをかけたギターや手数の多いドラムによる密度の高いサウンド
- ダウンチューニングを施したギターやベースによる重々しいサウンド
総じて、荒々しくひりつくような暴力的なサウンドの元となっている。
集中したい時には大抵イラついていることが多い。
そういった時に、このような暴力的なサウンドはカタルシスを生む。
そのカタルシスは、イラつきを周囲への八つ当たりという形ではなく、今目の前にある仕事を消化するという、プラスの方向に変える力がある。
デスメタルはデスボイスで歌われるという性質上、歌詞が非常に聞き取りにくい。
日本語の曲を流しながら作業をしていると、歌詞がいちいち気になって集中を阻害することがあるが、それは英語でも理解出来る歌詞の部分は気になってしまう。
しかし、デスメタルではその心配は皆無である。
何しろ、ネイティブの人でさえ何を言っているのかわからないのだ。
歌詞に気を取られる心配はないので、安心して聴き続けて欲しい。
また、密度の高いサウンドは周囲のノイズを打ち消す効果がある。
周りで繰り広げられている気になる会話も全部シャットアウトすることができる。
微妙に音漏れする可能性もあるだろう。
その時に周りに聞こえている音は、
ドドドドドッzwふぇいをjfうぇいおfjわおいわwがああああああああああ!!どんdのんっどどdにf
みたいな感じなのである。
「こいつ、ヤベェ・・・」
みんな話しかけてくることはないだろう。
つまり、集中したい時には、デスメタル。
2. プログレッシブメタルである
Messhuggahは北欧随一の技巧派集団と呼ばれるほど、非常にテクニカルなメタルを演奏するバンドである。プログレッシブメタルとも呼ばれる彼らの音の特徴は、以下のようなものである。
この複雑なリズムもまた、作業に重要な要素である。
以下に暴力的な音のデスメタルといえど、単調な演奏が続けばだんだん刺激に慣れてきてしまう。
そうなると襲ってくるのは、眠気である。
高速道路を運転中に眠くなることは多々あるだろう。どんなに切羽詰まっていようと、変化のない道という単調な刺激が続けば眠くなってしまうのである。
そこで入ってくる変態リズムである。
次から次へと襲ってくる形の違う刺激。これはどんなエナジードリンクよりも脳に覚醒を与えてくれるだろう。
また、浮遊感のあるギターソロも欠かせない要素である。
暴力の中に現れる少しの美しさはつまり、砂漠の中のオアシスである。激辛カレーを食べている時のジャガイモの中のわずかな味の染みていない領域を見つけた時の気持ちにも例えられる。
この音が激烈な演奏の中の一服の清涼剤となり、少しの冷静さを取り戻させてくれる。
仕事の中に必要なのは、パッションと、そのパッションを引き止める冷静さ。冷静さこそが良い判断を生む。情熱だけでは、仕事にならない。冷静さもまた大切である。
彼らはそんなことを教えてくれる。
3. インテレクチュアルメタルである
先に述べた2つの特徴から想起させられるものは、知性なのである。
激しく暴力的、かつ複雑なリズムを持つ音楽を演奏するには、たゆまぬ練習が必要である。
女の子にモテたいだけで音楽を始めた高校生には、演奏することはできない音楽性である。
SLIPKNOTのギターである、ミック・トンプソンはこのように言っている。
SLIPKNOTよりも複雑怪奇な音楽を演奏するには8時間どころではすまない。日に30時間の鍛錬が必要かもしれない。
そこから生まれる作品はまさに、全てを捨てて音楽に情熱を捧げた才能たちの狂気の片鱗である。
ここでMeshuggahの中でも代表的なアルバムである、Obzenのジャケットを見て欲しい。
まさにこのジャケットのイラストこそが、Meshuggahを象徴している。
血塗れの手から感じることのできる、暴力的表現。
腕が3本あることに象徴される、奇怪な音像。
そして、この結跏趺坐する人物から想像される、禅の境地。
つまりこの音楽は、自己と徹底的に向かい合った男たちの生み出す瞑想そのものなのである。
彼らの瞑想に共鳴して、聴いている我々の心にもその瞑想が訪れる。
激しく燃え上がる炎と、それを冷やす水。
その相反する矛盾した状態を我々の心にもたらしてくれる、そのような音楽が彼らの生み出す楽曲なのである。
さぁ、みんなもMeshuggahを聴いて、
イヴの夜の仕事に励もう!!
ハーモニー:映画版感想
というわけで公開初日にハーモニーを見に行ってきました。
一言でいうと中二病のメンヘラ少女が世界を滅ぼす話です。
確実にデートには向かないです。暗い話なのでひとりでいくかそういうの好きな人と行ってください。
僕は原作の世界観が大好きで、下手な社会のあり方に書いて書かれた本を読むくらいならこれを読むべきじゃないか、とすら思っています。
つまり、
<ul>
<li>ありとあらゆる情報が開示され、リアルタイムでオーバーレイされる社会</li>
<li>個人の健康状態が評価に直結し、それにより社会的地位も上下する社会</li>
</ul>
↑わざとやってますよw
この世界はいずれやってくるし、この社会は人間が必ず通過しなければならないディストピアだと思っています。
視界に入ったものが一体誰であるか、何であるかが表示されるということは、その対象の理解につながることになると思います。対象を理解した上で行動することと理解せずに行動するのとではまるでリアクションが変わってしまうことってありますよね。電車で目の前に立っている元気そうな若者は、実は病気で頑張って立っているだけなのかもしれない。他人の様々な事情が、口で語られることなく勝手に示されれば、他人に優しくできるのではないか。袖振り合う他人が「何者であるか」を開示された時に、我々はその人を乱雑に扱えますか?これは他人との関係性を考える時に非常に重要なテーマだと思います。
また物語が書かれた2008年当時も、レビューが世の中に普及していていましたが、今や物を買うときにAmazonの評価を見ない人ってほとんどいない気がします。どこかで食事するときは食べログを見るし、他者の評価が自分の評価の判断基準になっている。販売する側も、それを買う側も評価し評価される、他人の目からは出て行くことはできない。可視化されない時も、我々は常に評価を受けている。
そしてこの物語で描かれる評価の対象は、「健康」です。常に個人の健康状態が「WatchMe」を通して監視され、健康であることを強制された社会。健康の可視化もすでに進んでいます。スマートウォッチが常に脈拍を測り続け、健康状態がヘルスケアに蓄積される状態。医療関係者もそれを閲覧できる時代。
そして、社会に続いて、脳のあり方に「SF的な」考察を加えたことにより導き出された、ハーモニープログラムの副作用。これが多層的に織り成され、集約するためのミァハ、トァン、キアンの3人の一種百合的な関係性を軸にした人間ドラマ。
と、原作が好きな理由をつらつらと書きならべてしまいましたが、映画の話に移るとしますw
ここからはネタバレアリです。
まず単体の映画として捉えた時には、これは駄作か?と思いました。
ほぼ原作を踏襲したところまではいいのに、多くの人々の長い独白によって話が進行していく関係上、ドラマ性が失われてひたすら淡白に進んでいくイメージ。
例えば、ケイタやヌァザ、エーディンが研究について語る時に、ひたすらキャラクターの映像が写されますが、ここに例えば研究時の回想映像を入れたり、概念のイメージ図を入れたり、あるいは心象描写を織り交ぜた都市の風景を見せればこれらのシーンの冗長さは軽減されたかもしれません。
それに、重要なシーンにイメージ映像を入れる、例えばエーディンの死が告げられたシーンでエーディンが殺される瞬間をオーバーレイさせればさらにそれを印象付けられたかもしれません。
この表現であれば、映画ではなくTV放送にした方がいいのでは?と思いました。事実、アニメの総集編を劇場で見ているのような印象を受けました。
そんなモヤモヤを抱えた中で、いろいろ考えていたのですが、あることに気づきました。
この物語は、ハーモニープログラム発動後の「意識消失後」の世界に残されたひとつの物語だと。
となると、感情表現や思い出の表現は全てetmlで記述されています。全て客観的な世界です。
この客観的な世界を掘り出すために、あえてこのようなドラマ性を排した表現にしたのでは?
と考えるのは原作愛のせいでしょうか・・・。
単なるカット割りの制約だったりしてw
もちろん原作ファンとしては、描いて欲しいのに描いてもらえなかったり、表現が気に食わなかったシーンがいっぱいあることに不満はありますが。例えば、
- キアンが自殺するシーンはトァンは目で見ているよね?なのでその決定的な瞬間を描いても良かったんじゃないか。
- ヌァザがハーモニープログラムの副作用を語るシーンで、その副作用をトァンが原作では言い当てるのに、それが映画ではヌァザがさらっと言ってしまう。原作ではそこで衝撃を受けただけに残念でした。
- ラストシーンはミァハとトァンがバンカーから出て行き、コーカサスを眺めながらハーモニープログラムの発動を見届け、まさに消え去っていくようなラストだったのに、バンカーでのシーン以降は描かれなかった。消え去っていくようなラストからのGhost of a smileを期待していたのに・・・・
とかね・・・。
また、だらだらと気付いたところを並べていくと、
- トァンの同僚はウーヴェが採用になりました。エティエンヌとどっちかがカットされるだろうなと思ったけど。
- CGで人を描くのは努力はわかるんだけど、ちょっと浮いてた。
- 原作でもそうだけど、アクションシーンと呼べるものは最初のシーンだけ。わかってるからいいんだけど、そういうのを期待してた人は辛いかも。
- 「ただの人間には興味はありません」は残ってた。
- うねうね動くジャングルジムとか知性天井などはカット。まぁさすがにやっちゃうと安っぽくなるからいいけど。
- 件の食事シーン辺りからセリフ長いよ!っていう気持ちになってくる。反逆のキュウべえなんて目じゃないレベル。やっぱこう言うセリフの物量をおしきれる押井守は偉大だ。てか押井に作らせれば良かったんじゃないか(今更)
- ミァハからキアンへの着信は、トァンがぼーっとしていたとしてもあの間であれだけのセリフ量はないよなって思っちゃう。それはまぁ原作からなんだけど。
- レイコ→ケイタ→エーディン→ヌァザ→ミァハのスーパーお使いタイムは誰か飛ばしてもいいかと思った。てかキアンがミァハの死体の行き先を語ってるので、レイコはカットされるんじゃないかと思った。
- このお使いの連鎖はある意味ゲーム的だよね。まぁ原作の時から感じていたんだけど。
- トァンの独白で街の説明まではいらんかなぁと思った。
- バグダッドの旧市街地の表現は良かった。それまでほとんど未来的なシーンしかなかったので。
- ヌァザが待っているシーンで片足だけ前に出てて波止場のハードボイルドみたいになっててちょっとワロタ。
- 三木眞一郎が屍者の帝国に引き続き虫の息で次の目的地を告げるのはワロタwww またかよお前みたいな感じ。
- 次世代(ryのおじさんたちはゼーレみたいなのをイメージしてたけど、バスタードのエウロペアの十賢者みたいな感じ。
- オーグ会のCGは良かった。次世代チャットって感じ。
- 普通の物語だったらラストのチェチェンに着いたあたりはもっと盛り上がっても良さそうなのに、原作からして全然盛り上がらないので、関係者泣かせだなぁと思った。
- ラストのバンカーのシーンでのミァハ登場はブレードランナーのデッカードとロイの追いかけっこを想起させられました。やたら反響の強い空間っていうのも相まって。おっさんふたりじゃなくて若い女ふたりの追いかけっこなので、ビジュアル的にはだいぶマシですけどね。
- 御冷ミァハ(28)って考えると、うん、まぁ、ね。
- うーん、トァンがミァハを殺す理由の改変はいいんだけど、やっぱそのあとのシーンは欲しかったなぁ(二度目)
- ハーモニープログラムの発動は想像以上にあっさり描かれたなと。
- あの宗教っぽい曲よりも、スムーズにGhost of a smileに入ったほうがよかったのでは?
- Ghost of a smileは盛り上がらないLet it Goみたいな曲調で、ある意味本作にふさわしいです。
うだうだ書いてしまったけど、やはり大好きな原作であるので、自分のイメージは自分の中で補完します。そしてまた見に行くと思いますwww
ちなみに、ニコニコ大百科のハーモニーのページはなかなか秀逸で一見の価値ありです。
あとは来年の虐殺器官に期待ですね。
屍者の帝国:映画版感想
3ヶ月連続公開のはずが虐殺器官が2016年公開になってしまったので、2か月連続になってしまったProject-Itohですが、この2作の感想をだらだらと書き連ねようと思います。
原作は言わずもがな、伊藤計劃によって遺されたプロローグとプロットをベースに円城塔が書き上げたもの。
どこまでプロットがあったのかはわかりませんが、今までの作品にあった「伊藤計劃的なもの」をベースに、比較的派手な表現を多く使ったものでした。
原作から感じた「伊藤計劃なもの」とは、
- 世界を横断的に移動して進行する物語
- 人間の脳の働きを「SF的に」考察したテーマ
かなぁと思いました。僕は円城塔の他の作品は未読なので、どこからどこまでが伊藤計劃で、どこまでが円城塔かを察することは、伊藤計劃成分を引き出すことでしかわからないのですが。
そして原作はそれを軸に、19世紀後半の実在の人物+フィクションの人物をこれでもかと登場させたもの。元ネタが存在しない登場人物はほぼいないんじゃないか、ってレベルです。
主人公のワトソンはもちろんホームズで有名なワトソンだし、ワトソンに同行するバーナビー大尉もその破天荒な経歴も合わせて実在の人物。ワトソンに協力するハダリーは未来のイブのハダリー(イノセンスのガイノイドの元ネタ!)だし。
この超豪華出演陣に加え、スチームパンク的な世界観に中二的な演出(クライマックスでのパイプオルガンの連弾とかね)ときたら、淡々と進む伊藤計劃作品とは一線を画したエンタメ作品ですよ。
というわけで映画も基本的にはエンタメ路線でした。
ただし、後半はかなりのストーリー改変が入っており、登場人物も黒幕も動機も原作とは異なっていたので頭が混乱してしまい、整理のために二度見するという有様。
ストーリー改変の根本的な部分は、ただの「支給品」であったフライデーが、ワトソンの友人という濃厚なホモシーンを想起させるというもの。確かにこれにより、ワトソンがフライデーの魂を取り戻すために「ヴィクターの手記」を追うという筋の通ったストーリーになったなぁと。
原作のエンディングでフライデーの一人称による語りが入るのですが、これは円城塔が伊藤計劃に対して送るメッセージだと僕は捉えていて、物語の書記であったフライデー=円城塔と、物語の進行役であるワトソン=伊藤計劃という関係性を想起させられました。現実の「屍者」と「生者」を逆転させるところも含みつつ。この関係性は円城塔の伊藤計劃に対する思いも関わっていると思うので、ある種必然的な改変ではあったと思いました。ここはよかった。
ただ、Mがただの悪役になってしまったのは残念だし、(原作のMとヘルシングの役割を合わせているが、ヘルシングってキャラクター性から不死者であるザ・ワンとの対立を想起させやすいけどMはちょっとそれが薄いよねと)それに伴う後半の駆け足っぷりはおいおいって感じにはなりました。ザ・ワンが実は進化論のあの人だった!っていう話もなかったしね。原作未読の人はなんでフランケンシュタインが緑色の怪物じゃなくてジジィなんだ?って思うかも。
映像的には、アフガン旅行のシーンがBGMも含めてすごく良かったです。池頼広は全然好きじゃないんだけど、このシーンは非常に印象的に見せているなぁと思いました。
あと映画にしかないシーンだけど、下水道でのフライデーとワトソンの濃厚なホモシーンも良かったです。こう言う改変だったら全然歓迎。
映画だけあって、絵のクオリティはもう否定する要素はございません。
エンディングのDoorと、そこにかぶさる語り(原作のエンディングに相当)含めて、後半のワチャワチャっぷりを除けば非常に良い作品でした。
いろいろな意見はあるかもしれませんが、伊藤計劃の想定からおそらくある程度は外れているであろう円城塔の作品からさらに先に進めた、メタ屍者の帝国として、ひとつのエンタメとして捉えるといいのかもしれませんね。
さぁ、次はハーモニーだ!!
春画展に行ってきた。
春画展に行ってきました。
開催場所の永青文庫は、細川家伝来の美術品の展示箇所だということを初めて知りました。最後のコーナーに永青文庫所蔵の春画の巻物が置いてありましたが、
「20歳になったお前に我が家秘伝の書物を授ける」
って言われてワクワクしてみたら、春画だったら面白いですよね。
内容としては、もうご想像の通りの代物です。昔の萌え絵です。
一緒に行った人と、もうこれは昔のエロ同人誌だよね、という話をしてました。
有名な物語を下地にした二次創作あり、触手モノあり、ホモォあり、日本人の性に対する想像力というのは昔から上記を逸していました。
日本人はデフォルメ技術に長けていて(なぜ長けているかの考察はよくわからないのでしません)、それが浮世絵の独特な顔の表現に現れていると思うのですが、それは現代の萌え絵にも通じる感覚だと思います。
多分200年後とかに、エロ同人展なんかが開かれてこういう風に紹介されるのかな。
あと、もちろんノーモザなのですが、いつから日本の出版物はモザイクを入れる必要が出てしまったんだろう。海外ではモロ出しなのにね。
局部の隠蔽それ自体が猥褻であることを隠すかというとそんなことはないと思うんですよ。既に行為自体が猥褻なわけで。
そして猥褻だと言ったところで、結局子供を作って子孫を繁栄させる、人間としての種の存続を考えたら、性行為自体を隠蔽することはむしろ種の存続を途絶えさせてしまう遠因になることだってある。(ちなみに展示物には夫婦向けの性の指南書もありました)
これは猥褻であるか、ということの定義は結局は個人の裁量に依存していて、当人が猥褻と認めれば猥褻になってしまうのは現実にありえることです。
例えば、「あなたの家に生えている木のうろが女性器に見える、これは猥褻だ、伐採してくれ」と言われたら、それを否定することはもはやできません。
「私にはこれは女性器には見えない」という主張を受け入れてもらうことは、悪魔の証明にも似た難しさがあります。個人の感覚を理詰めで変えることはできないですからね。
「これを猥褻だと思うあなたの思考が猥褻である」っていうのはゲーム脳の論破にも使われるようなフレーズですが、こんな主張をしてしまえば火に油を注いでしまいます。
そうすると、多様であるはずの猥褻の基準が社会においてはどんどん厳しいラインに揃っていきます。
ある人はΦという文字を見ると女性器を連想し、ある人は縦棒を見たときに女性器を連想する。
そうなった時、社会全体における猥褻の判断基準が個人の判断の"最小公倍数"的に揃えられ、Φも縦棒も禁止させる世の中になってしまう。
そして社会通念的に許される範囲がものすごく狭くなってしまう。
ネット時代だから起こるような、個々人の判断基準の集積によって特定のものが非難され、潰されてしまうような例は、このように説明できるのかなぁと思いました。
ものすごく話が逸れましたが、春画を見ていて猥褻とは何か、というのを分析してしまいました。
あとおまけですが、物販で春画Tシャツを売っていたのですが、"猥褻"だと思われる部分に関してはポケットを付ける(中はちゃんとプリントされてある)という凝った代物でした。
普段の服とあまりに合わないので買いませんでしたが。
チラシの裏にでも書いとけや!ってことは
ブログに書くことにしたよ。